八一の人と芸術を偲ぶ作品を中心に、多角的かつ視覚的に親しみやすく紹介。

「郷土の偉才、會津八一の心にふれる」

會津八一愛用の文房具

會津八一記念館は、新潟市出身で早稲田大学名誉教授・東洋美術史学者・書家・歌人である秋艸道人・會津八一の業績を顕彰し、広く市民に紹介するために、昭和50年に開館しました。収蔵品は會津八一の書画、原稿、書簡、文房具、印章、写真、生活用具など1万2千点に及び、八一の人と芸術を偲ぶものが多いです。

展覧会は収蔵品の中から四季折々のテーマを設定して、年3回の企画展と1回の特別展を行なっています。特別展は、これまでに奈良、京都、東京など八一ゆかりの地との関連や棟方志功、高村光太郎、北大路魯山人など同時代の芸術家とのコラボレーションを企画し、八一の業績を多角的かつ視覚的に親しみやすく紹介しています。

主な作品と解説

獨往

獨往
獨往(どくおう)
秋艸道人(しゅうそうどうじん)
昭和20年代
軸 紙本墨書 28.5×57.5(cm)

 大意は「自分の信じる道をひとすじに進むこと」。會津八一は歌壇や書壇に所属せず、独自の芸術を切り開いたが、著作の中にその一端がうかがえる。大正13年(1924)12月に刊行された初めての歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう』自序に「獨往して獨唱し、昴々として顧返することなし」とある。また、書画作品集『遊神帖』自序でも「予は書画に於て師承することなし。ただ群書を読みて、ほぼ変遷の大勢を知り、伝世の名蹟にして、寓目せるものまた多きによりて、その間、おのづから会得するところあるが如きのみ」とある。「獨往」とは、會津の生き方を偲ばせる語句といえる。

秋艸堂

秋艸堂
秋艸堂(しゅうそうどう)
秋艸道人
昭和22、3年(1947、8)
額 紙本墨書 33.0×87.58

 秋艸道人・會津八一の住居の号。「艸」は、草の本字。由来は、萩・菊・葉鶏頭など秋の草花を好んだことから名付けられた。

 新潟県板倉村(現・上越市)有恒(ゆうこう)学舎の英語教師時代から自らの邸宅を秋艸堂と称している。その後、東京市外落合村(現・新宿区)下落合にある市島春城の別荘に転居しているが、その際も秋艸堂と称している。もとは「閑松菴」と称していたが、庭の大きな萩の古株がよく延びていたため、會津は秋艸堂の名称にしっくりしたと述べている。

学規

學規
學規
 一 ふかくこの生を愛すべし
 一 かへりみて己をしるべし
 一 学藝を以て性を養ふべし
 一 日々新面目あるべし
秋艸堂主人
軸 紙本墨書 33.0×87.5

 「学規」は、會津八一が考えた学究生活の指針四ヶ条。内容は、尊い生命を大切にすること、自分自身をありのまま見つめること、学問や芸術により人間としての人格を培うこと、日々前進できるよう努力することを説いている。

 大正3年(1914)8月、東京府小石川区高田豊川町(現・文京区目白台)に転居したばかりの會津は、郷里の新潟から受験生を受け入れていた。會津は彼らの姿を見て、机を並べていた八畳部屋の床の間の壁に学規を貼っている。會津自らが実行し、多くの門下生、友人に渡された言葉でもある。

みとらしの

みとらしの
みとらしの あづさのまゆみ つるはけて
ひきてかへらぬ いにしへあはれ
八一
軸 紙本墨書 33.0×47.0

 『南京新唱』に詞書「御遠忌近き頃法隆寺村にいたりて」と題して収められた四首のうちの第四首。歌意は「聖徳太子が愛用したという梓弓で放たれた矢が戻らないように、ふたたび返ることのない古よ」。「みとらしのあづさのまゆみ」とは、聖徳太子が物部守屋との戦いの際に使用したといわれる梓弓で、法隆寺に現存している。

 明治41(1908)年、會津の最初の奈良旅行の時に詠んだ歌の一つで、古代への強い憧れを示している。

棟方志功版画・文殊菩薩図 會津八一歌書・はつなつの
棟方志功版画・普賢菩薩図 會津八一歌書・やまとには

棟方志功版画・文殊菩薩図
はつなつの かぜとなりぬと みほとけは
をゆびのうれに ほのしらすらし
 丙戌七月十日 秋艸道人會朔題舊作
昭和21年(1946)7月10日
軸 紙本墨書・版画 98.0×42.3
棟方志功版画・普賢菩薩図
やまとには かのいかるがの おほてらに
みほとけたちの まちていまさむ
 渾齋主人
軸 紙本墨書・版画 98.0×42.3

 「はつなつの」は『南京新唱』に詞書「博物館にて」と題して収められた第6首のうちの第5首目。大意は「初夏の南風が到来したと、みほとけは、しなやかな小指の先でほのかに感じていらっしゃるようだ」。

 「やまとには」は『鹿鳴集』「觀佛三昧」に詞書「十五日二三子を伴ひて觀佛の旅に東京を出づ」と題して収められた第一首。大意は「奈良の地のあの斑鳩の法隆寺には 御仏たちは私達が来るのをお待ちになっていることであろう」。昭和14年(1939)10月に詠む。

 作品は、昭和21年7月、新潟市の古書店・佐久間書店店主が所蔵していた、棟方志功(1903〜1975)の版画「十大弟子」の二菩薩に會津八一が自詠歌2首を書き入れた双幅である。二菩薩は、棟方が昭和14年に彫った板画だが、空襲で板木を焼失した。棟方の戦前の二菩薩は数少ない。昭和を代表する両巨匠の合作は稀有な作品である。會津と棟方は、昭和7、8年ごろから知り合い、會津が亡くなるまで終生交流を深めた。

李白詩十二幅

李白詩十二幅
李白詩十二幅
昭和18年(1943)9月
軸 紙本墨書 各128.0×32.5

 本作品は昭和十八年九月、李白詩十二編から引用し、中国製の虎皮箋で揮毫した連作である。會津八一の歌碑制作に尽力した中央公論社社長・嶋中雄作に御礼として贈ったものと言われる。李白(701~1762)は唐時代の詩人。酒と仙を愛する超俗的な人柄と奔放な詩風とにより「詩仙」と称される。李白は會津が最も多く揮毫した漢詩人の一人である。

 明治41(1908)年、會津の最初の奈良旅行の時に詠んだ歌の一つで、古代への強い憧れを示している。

みやこべを

みやこべを
にひがたにて
みやこべを のがれきたれば ねもごろに
しほうちよする ふるさとのはま
 八一
軸 紙本墨書 73.5×33.0

 昭和22年(1947)4月に刊行された『寒燈集(かんとうしゅう)』に「雲際」と題して収められた7首の第3首。詞書は「やがて松ヶ崎なる新潟飛行場に着して」。大意は、「戦火の東京を逃れてくると、ふるさとの浜は懐かしく、またやさしく潮が打ち寄せている」。昭和20年(1945)4月に詠む。

 昭和20年4月14日早暁、米軍機B29の爆撃により會津の住居、目白文化村秋艸堂が罹災し、全焼している。膨大な資料や書籍などを失った會津は、4月30日に羽田空港より毎日新聞社の飛行機で新潟松ヶ崎にある新潟飛行場に向かった。到着した際、坂口献吉(当時新潟日報社長、坂口安吾の長兄)が出迎えている。

中田瑞穂画・吊し柿図 會津八一歌書・あさひさす

中田瑞穂画・吊し柿図
西条にすみけるころ
あさひさす ほたのほのへの つるしがき
ほのしろみかも としはきぬらし
 秋艸道人
昭和25年(1950)
軸 紙本墨書・着色 92.0×28.5

 『寒燈集』に「榾の火」と題して収められた5首のうちの第1首。昭和20年(1945)12月に詠む。北蒲原郡中条の丹呉家に寄寓していたときの歌。この年は、會津八一にとって生涯で最も波乱万丈の年であった。大学の教授を辞職し、戦災で全焼し、唯一の家族養女きい子は病死し、敗戦を迎えた。歌は、年の暮れに榾の火の上の吊し柿を見つつ、一年の出来事を感懐して詠んだと思われる。

 中田瑞穂(1893〜1975)は、わが国脳外科の開拓者で、會津の主治医であり、また書画に優れた俳人でもあった。昭和23年(1948)頃より親交を深め、書画の合作を制作した。

富樫正禅宛書簡

富樫正禅宛書簡
過日は遠路御出かけのところ何も風情なく御きのどくに存じ候。勝常寺はなか/\の趣味家と見え誰をも識り何もかも心得居らるゝらしく話が縦横に飛びしため落つきて深き話もなすべきはづみを失ひ候こと遺憾に候へども書を習ふには先づ指を用ゐず腕と肩と腰とを用うべしと申したる一事はよく御玩味の上御実行ありがたく候。仏法も書道も要は行にあり。知識は皮相のものなり。粉々たる常識は無益にしてまた害ありと御諦め被下度候。過日申したる練習は新聞紙などの上に棒切などにても行ひ得べく経済的にて候。
右のみ如此候
  十一月 秋艸道人
 正禅師
 勝常寺へよろしく御伝被下度候
秋草道人新印(三十五顆 押印、刻者を記している)
 西ハ 西川寧
 憲は 富本憲吉
 正ハ 山田正平
 秀ハ 香取秀真
 武ハ 喜多武四郎
 常ハ 常盤瓮丁
 富ハ 會田富康
 忘ハ 勝田忘庵
昭和23年(1948)11月19日
軸 紙本墨書 51.4×53.9

 昭和23年11月、当時福島県の高徳寺で修行していた富樫正禅へ宛てた書簡。勝常寺の宇佐美住職とともに富樫は新潟市南浜の會津八一の自宅を訪問した。その際、會津は二人の禅僧に対し、書について、歌について教示したという。

 内容は、来訪のお礼とともに、會津独自の書の練習法が記されている。また、主な自用印の印影と刻者名まで披露し、当時愛用していた印を窺うことの出来る貴重な資料である。

 會津書簡の特徴は文学と書芸が一つに結びついている点が挙げられる。当時の生活の様子や心情を告白めいた私的な話題だけでなく、学芸に対する態度と主張が會津の気質と相まって、如実に生き生きと記されている。その書は、漢字仮名交じりの文体であり、文章の赴くままに筆が躍動感に満ちている。実用性を重んじ、その上で芸術面を追求したのが會津の書美である。

新年同詠船出應制歌 ふなびとは

新年同詠船出應制歌 ふなびとは
新年同詠船出応制歌 會津八一上
ふなびとは はやこぎいでよ ふきあれし
よひのなごりの なほたか久止母(くとも)
昭和28年(1953)
額 紙本墨書 39.0×51.5

 昭和28年2月5日、宮中の慣例行事である歌会始の儀の召人(めしゅうど)として詠んだ応制歌(天皇陛下の命で詠まれた歌)で、御題は「船出」。大意は「船人たちよ、早く漕ぎ出そう、吹き荒れた昨夜の波がまだ高くあろうとも」。

 この歌は太平洋戦争の痛手から立ち上がろうとする国民の姿を、荒海に船出する人々の勇姿と重ねて詠んだ激励の1首である。この年の召人は會津八一と新村出(しんむらいずる)、選者は尾上柴舟(さいしゅう)、釈迢空(しゃくちょうくう)、窪田空穂(うつぼ)、土屋文明、吉井勇。歌会始の出席は會津にとって光栄な出来事だったようで、友人らに書簡でその詳細をしたためている。書は応制歌の書式にあわせて仮名を四行書きにして最後の三字を万葉仮名で揮毫(きごう)されている。

端艇部脱會願

端艇部脱會願
明治31年(1898)9月
原稿用紙1枚・墨

 會津八一が新潟尋常中学校の四年生の時、端艇部に所属していたが、脚気により活動ができない上に、端艇新造の負担金を父母に求めることはしのびないことを理由に脱会願を提出した墨書である。遊び心で「弥一」と記したのだろう。この脱会願について、安藤更生著『書豪 會津八一』によると「極めて明確な、おっとりとした文字で、既に後年の書風の萌芽が認められ、決して悪筆などいふべきものではない」と述べている。

旅行カバン

旅行カバン
旅行カバン
布・墨書 24.5×32.5×4.0

 明治末から大正にかけて、全国各地を旅行する時に携えていたカバンである。健脚にまかせて歩き回った地名(奈良、大津、九十九里浜、霞ヶ浦、足尾、日光)が布製カバンの裏面いっぱいに毛筆で書かれている。

 會津八一は、旅先で詠んだ歌が多く、その土地ゆかりの歌として、全国に47基の自詠自筆の歌碑及び梵鐘が建立されている。

齋藤三郎窯 會津八一書き入れ陶器

齋藤三郎窯 會津八一書き入れ陶器
「愚・鈍・迂・拙・頑・魯・遲・訥」
陶皿・呉須 各口径10.5 高2.8

 出典不詳。歌人吉野秀雄が昭和29年(1954)に詠じた『良寛和尚讃称』と題する10首のうちの第一首に「遅魯訥拙頑漫迂癡愚鈍(ちーろーとつせつぐわんまんうちーぐーどん)きみがごときは吾が恋ひやまず」がある。小皿の文言は、おそらく良寛大悟の境地に関する語句と思われる。

 陶芸家・齋藤三郎(1913〜1981)の陶器に八一が書き入れた。齋藤三郎は、新潟県栃尾市(現長岡市)出身で、近藤悠三、富本憲吉に師事した。昭和27(1952)年には、東京日本橋の壺中居で八一の書入陶器展を開催している。

 小皿の上に饅頭をのせて客に出す。饅頭を一口食べるとその文字が見え、客が唖然とする。…実際に使用したのかわからないが、會津のユーモア精紳が現れている作品。

文房具(筆、硯、文鎮、水滴、朱肉、墨)

文房具(筆、硯、文鎮、水滴、朱肉、墨)

 書家として様々な文房具を使用した會津八一は、日ごろの制作には、実用的な文房具を好んだ。硯は中国製の硯、筆は唐筆(中国製)と和筆(日本製)、墨は唐墨と和墨がある。

 しかし中には、中国・明末時代に造られたという大変貴重な飾筆(かざりふで)もあり、管には螺鈿・堆朱・蒔絵と各種施されて実に美しい。また明時代に製造された古墨『文犀照水図(ぶんさいしょうすいず)』は名品だ。これらは美術工芸品として資料用に所蔵していたと思われる。

新潟市會津八一記念館(あいづやいちきねんかん)

[所在地] 〒950‐0088 新潟市中央区万代3-1-1 メディアシップ5階(平成26年8月1日より)
[TEL] 025‐282‐7612
[FAX] 025-282-7614
[URL] http://aizuyaichi.or.jp
[開館時間] 10:00〜18:00
[休館日] 月曜日(祝日のときはその翌日)
祝日の翌日、年末年始(12月28日~1月3日)
[入館料] 一般 500円、大学生 300円、高校生 200円、小・中学生 100円
※20名以上で団体割引あり
※土・日・祝日は小・中学生は無料です。